言い訳

駄文ってことは知ってるから許してください

私とBL n章

 最終更新を確認したら1年半前で目ん玉ひん剥いた。というのは大嘘で二年くらい前だと思っていたので意外と間は空いていませんでした。

 

 薬学生でも医学生でもないのですが、大学生活5年目の春です。

 ぶっちゃけもうブログとか書かなくていいかな~と思っていたのですが、長いことまともな文章を書くの苦痛で、人生に支障を来しているのでリハビリと思って何か書いてみようかといった次第です。三流文系大学生なんてものどんなに稚拙な文でも何かしらでっちあげてレポートを書きさえすれば、卒業できるようなものなのに、それができないのです。スランプというほどご大層なものでもないのですが、人に評価される文章を書くことが、本当に苦痛で、くるしいことはしたくないと逃げ回った末いよいよ逃げられないところまで来たのが現在です。

 近況を語るのはほどほどにして本題に入ろうかと思います。

 

 まず初めに、これはBL批評でもなんでもない。ただ私の感情を消化するためのとりとめのない自己語りである。

 ツイッターでゲイ文芸の作家さんによる、BLに対する批判とすらいえないような、ごくごく穏当なたしなめのようなものを見た。全くもって的確で、BLの愛好者に敵対するようなものではなく、むしろ配慮に満ちた文章だったのだが、私はかすかに反感を抱いてしまった。

 大前提として、私はいわゆるBLとして名指しされる作品群とそのカルチャー全体のことを、政治的にただしい、倫理的な無謬であるとは思っておらず、どちらかといえば”わるい”に分類されるものであると考えている。そして、(主に)非当事者による実態に沿わない男性同性愛者表象の(性的なものを多分に含む)消費である以上、男性同性愛の当事者から、搾取、あるいは偏見の再生産であると批判されることは避けられないだろうとも考えている。

(私個人の率直な感情を不真面目に表現するならば、「怒られたらすみません……としか言えねぇ」であるし、そもそもBLは今現在の規模まで大衆化されるべきではなかった、狭い同好の士のみの世界でささやかな世間に見つかるべきではなかったとすら思っている。さらに言えば、多くの女性が男性同士の性愛表現を特別に好むのは、あらゆる抑圧をはじめとした女性を取り巻く環境の歪が影響しているだろうと自己の経験から推察することから、BLが流行っているという状態は健全ではないなどとも思っている)

 閑話休題。これ一度使ってみたかった。オタクだから。

 今度こそ閑話休題

 これがただ私の愛するものを批判されたことに対する反射的な攻撃感情ではないと、胸を張ることはできない。というか、そうなのだろうと強く疑っている。

 一応、建前としてある私の主張について考えてみたい。私は、BLの消費はマジョリティによるマイノリティの搾取だと言われることに抵抗がある。”私”がマジョリティ側で、マジョリティ―マイノリティの権力勾配の図に組み込まれることを不満を覚えているのだろうと思う。

 だって私は”ノンケ”じゃない。同性愛者ではないが、異性愛者でもない。全性愛者ですらない。恋愛または性愛において、何を愛するかついての人間のカテゴリのどこにも私は属することができない。(無性愛者と積極的に己をアイデンティファイしたいわけではないが、消極的にはそう認められる)だから、唯一快適に受容することができる、理想化された異性たちのフィクションの恋愛/性愛を通して、私の理解できない世界とつながる。満たす方法は存在しないのに、何故かそれだけ存在する欲望を満たす。

 あなたたちは持っているじゃないか。私が持っていないものを。少しくらい分けてくれたっていいじゃないかその楽しみを。

 恋愛あるいは性愛を”やっている”人々への、ルサンチマンじみた嫉妬を私は捨てることができない。

 理性的に考えると、(幸運にも環境に恵まれた部分は大きいが)私は恋愛/性愛的案意味で人を愛さないということで、不便を感じたことや不利を被ったことは一度もない。(今後はあるだろうが)(未だ成熟した人間は性愛に基づく小規模共同体を運営することを前提として構築された社会システムの中で生きているので)マイノリティが被るような抑圧や不利益を避けて生きている。だから、私は十分マジョリティとして責任を問われうる立場にあるのだと認められる。また「分けてくれたっていいじゃないか」などと書いたが、自分が当事者ではないものの表象の消費は、抽象的に表現するならば、人の盗んで奪うような行為だろう。

 だけどどうしても、私が”恵まれなかった”ものを持っている人々に、私はそれを持ってないことが要因で責められる立場になることに納得できない。

 恋愛/性愛をやることで社会に苦しめられるのならば、やらなければいいじゃないか。私にはやる・やらないの選択肢すらない。そんな可哀そうな私を選べる人間が責めないでくれよ。

 しかし、これでは異性愛者の差別主義者が持ち出すクソ論理と同じではないか。そもそも、恋愛/性愛をやる(ことができる)―やらない(できない)の権力勾配と、男性同性愛(=マイノリティ)表象の(性的)消費は重なる部分はあれど別領域にある問題である。”私”も彼らも等しく尊重されなければならないし、恋愛/性愛をやらない人間ではなくBL愛好者としての私は、当事者である彼らに譲らなければならない部分がある。それだけのことだ。そう考えるのが正しい。

 

 人を愛することで喜ぶことも苦しむこともない。ただ最初から何も存在しないのだ。そのことがさびしい。

 苦しんでいるのだとしても、私が経験することのない様々な感情を享受する人々のことが羨ましい。

 恋愛/性愛をやるための動機を己の内に持たないことで不便を感じたことは本当にない。自分を未熟な、何かに欠けた人間だと思うこともない。人生において味わうことができる喜びの種類は他にいくらでもある。

 恋愛/性愛を理想視しすぎている自覚はある。でも私にとって、恋愛/性愛関係を他人と構築することにつながる欲求を持った人々は魔法使いなのだ。私は、マグルで、魔法に心から憧れているが、自分の世界には存在しない、空想上のものだ。私の世界は魔法なしで完結していて、魔法使いが魔法を使うための法律だと知ったことではない。(ここでJ.K. ローリングの作品を持ち出すことに他意はない。単なる比喩だ)

 

 BLは、私にとって文字通りファンタジーなのだ。

 

 ただこれが何かの免罪符になることはない。この言葉が用いられた他のあらゆる言説が、私たちが現実世界に対して負う責任を免除するものではないのと同様に。